旧街道ウオーク第4ステージ『美濃街道』が始まります。全コース101kmを6回(3月2日~8月3日)に分けて踏破予定です。
美濃街道と名のつく街道はいくつかあるが、今回歩くのは福井から美山町、大野市、和泉村を経由して県境の油坂峠を越え、郡上市白鳥町に至る街道である。この街道は、古く泰澄大師が白山禅定をを目指して越前から美濃へ向かったと伝えられ、鎌倉後期には三河国和田門徒の法係を継ぐ如道・信性が美濃から越前に真宗を伝えたルートである。また延元三年(1338)美濃の守護土岐弾正が新田義貞を討つために、油坂峠を越えて大野に進撃し、戦国時代には朝倉氏の部将や織田信長の部将金森長近が通り、近世には郡上藩が越前の飛地領支配のため、また、幕府の高山陣屋の役人が越前の幕府領支配のため(勝山街道で通った堀名銀山等)多くの武士が行き交った道でもある。(「加賀・越前と美濃街道」より)
開催日時:3月2日(日) 8時30分スタート
集合場所:JR福井駅東口 解散場所:JR越美北線 小和清水駅 距離:19km
コース:JR福井駅⇒旭橋⇒石造三尊仏⇒鳴滝⇒一石一字経塚⇒真杉家多羅葉⇒柿谷遺跡⇒JR小和清水駅
ウオーク概況:竹原会員寄稿
春まだ浅き越の路(みち)
輝く白山足羽川
集ふ精鋭百余人
我らは福井ウォーカー
(となたか曲をつけて次回歌ってね
我らの季節到来だ。待ちかねていたウォーキングの季節。今年の嚆矢は美濃街道。いざや、我らの季節を謳歌せん。
旅人とわが名呼ばれん春の空 チカオ
福井駅裏に集まったのは95名。風は少し寒いが、まさにウォーキング日和。 準備体操。この協会はとにかく何もかにも上品。「では、両手をあげていただいて――」「腕を回していただいて――」「こちらへ集まって下さいませ――」とくる。まあ、上品ですね。こうなると「ウン」なんていえない。がさつな私でさえ、つい「ハイ」となる。この調子を持したいものですね。 この季節のアウトドア。藤村を思い出しませんか。若き日の藤村が、悠久の自然と有限なる人事を、華麗な万葉調に、格調高く歌い上げた季節。
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草もしくによしなし
あたゝかき光はあれど
野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく
明日をのみ思ひわづらふ
旧羽生街道の堤防にでると、霜枯れの荒涼たる河川敷の中央に流れる足羽川が、キラキラと春の日差しに輝いてわれわれを迎えてくれた。 しかし、春は確実に到来していて、雪解の田園には、整然たる若麦のみどりにあらずんば、真砂を撒いた天の川のごときタネツケバナの群生。路傍には、ナズナ、スズメノテッポウ、ミミナグサの白い花々、複雑な表情のジュウニヒトエが今や満開。あまつさえ、青空が染み込んだようなイヌノフグリが散らばっている。これを星見草と呼んだのは誰だったか。もう絶滅したかと言われる野生の八重咲きスイセンまでが妍を競っている。ところどころ、萌黄色のフキノトウがあどけない口を開いて笑っている。 成願寺の渡しを過ぎたあたりで、石仏が現れる。旅人の旅程を守る地蔵菩薩は村の入り口で待ち構えているのだが、ちょっと変わった石仏もいます。まず三尊仏。三体とも上半身がない。廃仏毀釈の名残だろう。上半身のかけらが残っていて、それが頭に宝冠をいただいているらしいので、これは観音か。としたら三体は弥陀三尊であろう。こんな路傍に置かれていたはずはない。そして、頭に宝冠、右手に剣、左手に宝珠を持っている石仏が二体。密教の大日如来の化身たる虚空蔵菩薩であろうか。いずれ厳重な建物の中に祀られていたものと思われる。珍しい石仏に出遭って心和む思いだ。街道を通った人々も、ここで両掌を合わせて旅の無事を祈ったに違いない。泰澄大師も和田門徒も新田義貞も、まなじりをけっしてここを奔り抜けたか。 じっくり拝んでいる暇はない。何しろ当協会名物の速歩についていかねばならない。時速5.5kmぐらい。道草食っている暇などはとてもない。「もし19キロ、完歩できなかったらどうなるの」などという人もいる。聞いていておかしい。 「宿布」は何と読むのか。宿布そば、宿布発電所、足羽学園なんかも見たいが、そんなことをしていたら迷惑がかかる。「レツヅメー」ということになっては申し訳ない。鳴滝不動も同じ。でも急いで覗きに行ったが、滝上の厨子の戸は閉まっていた。 急いで歩くには理由がある。トイレ待ったが長いのだ。女性は大変だなと思う。いちいちドアを閉めたりなんかしているから時間がかかる。中国式に周囲の囲いなんか取っ払ってしまえばいいのに。あれ、怒られるかな。冗談ですよ。 昼食は「朝倉水の駅」。五年前に建てられたらしいが、存在すら知らなかった。ひろい敷地に人工河川が流れている。川の傍らのネコヤナギ下で食べた。ん? 川の中にはカワニナがウヨウヨ。ホタルの幼虫のために放流したに違いない。ホタルのころに再訪せずばなるまい。 地元の郷土歴史家の説明。越前弁丸出しが、微笑ましい。多羅葉の説明。やおら本物を持ち出す。この葉に消息をしたためたから、ハガキという名前になった、というので、葉の裏にマジックで「福井ウォーキング協会」と書いたものを見せる。私は「ウッソー」と思った。インド産のものがこんなところにあるはずがない。質問、「紙のない昔はこの葉に経典を書いたんですがね、オモテかウラかどちらに書いたの」相手はキョトンした。知らない、という。経典を書いたというのも知らない様子。 ところがしばらく歩いたら、本物の多羅葉の巨木がある。何だか分からないままに帰った。帰って調べてみて分かった。私は少し勘違いしたのだ。インドではタラジュから作った貝葉(ばいよう)に経典を書いた。そのタラジュに似ている木が西日本に自生しているので、タラヨウと名づけたとある。葉の裏側に釘のようなもので傷つけて経典を書いたようだ。もうひとつ、あの人はこのままでは郵便局が受け付けないといっていたが、切手をボンドで貼り付けて出せば受け付けるようである。大いなる野次馬の私はやってみたくてならないのだが。 天神橋を過ぎた辺りから、足羽川は「清流」という印象になる。雪どけ水のため少しササにごりだが、全体の風情がすがすがしく、すずやかだ。時に、遠い奥越の山顛にはわずかに冠雪が垣間見えるようになった。 旧・美山地方である。杉の植林が見事に進んでいて、手入れも大変よろしい。このあたりから、いわゆるトヨダグリーンの風景一色になる。豊田画伯の作り出した、独特の黒味を帯びたふかみどりである。半日ぐらい、ここに座って、豊田画伯の気分に浸りたいなあと思ってしまう。そんなウォーキングもあっていいね。 一石一字経塚、若宮の淵のいわれは分かった。飢饉や戦争ともなれば、生身の人間の身に当然そんなことも起こるだろう。「ああ、そんな悲惨なことがあったの」では済まない。地球上には未だに、いや今だからこそ、そんなことが限りなく起こっている以上、われわれだけが、それを対岸の火事だと言ってはいられない。最近の世相は、のんびりと眺めていたら、いつ火の粉がとんで来ないものでもないのである。のほほんと、飴玉舐めて歩いていていいのかしら。 3:31の上り列車にはどうしても乗らないといけない。それを逃したら二時間後になる、と気を揉んでいたが、今日はゆとりある日程。ゆったりとクールダウン。またまた「……していただいて」だ。上品ですな。「今度はそのまま仰向けになっていただいて」と言われて、「痛てっ」と思いながら空を見ると、ソメイヨシノの枝が目の前にかぶさってきた。花芽はまだ固い。 お土産に、ボタン肉ですって。「私は200円しか払っていませんが」と言ったが、ニコニコして渡してくれた。どうなっているの。 小和清水という地名は霊泉があったからだという説明をみて、ひとりで近くの白山神社境内へ。神馬と直系30cmほどの大砲の弾を飾ってあるのみで、霊泉は見当たらない。誰も拾わないと見えて、ギンナンが、まあ浜のジャリほども落ちていて、私は100粒数えて拾った。 帰宅して、肉はステーキに、ギンナンは袋に入れてレンジにかけたら、オツなつまみに化けた。 ちょっと足が痛いのだけれど、またも待たるる次のウォーク。あくせくと明日をのみ思いわずらわず、悠久の自然に抱かれて、のびのびと生きていこうではないか、諸君。
再見。 (竹原)